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フォントの修正と、「段落文体」のカスタマイズ

私のサイトのフォントの設定を変更しました。
それについて、考えたこととか、膨大ないいわけとか。
具体的にやったのは
・indexページでのフォントの文字を大きめにしました
・Fontをmedium設定にして、IEでもブラウザ側で制御できるようにした。

mozillaだと数値指定でもブラウザ側でフォントサイズを変えられるけど、IEだと数値指定は固定のままなんですね。
レイアウト文字数が固定されていると、「講壇」っぽい口語演出の書き方をするのが楽になるのですが、文字の大きさは読む人が自分で選べた方がいいのも事実。過去ログ直すのもメンドイしなあ・・・と悩んでいたんですが、一応こんな風にしてみました。

*
で、膨大な言い訳

急にこんな変更をしたのは
テキスト庵というところで、「段落文体」「非段落文体」という話を読んだからです。
http://www.spacehorn.com/text/report.cgi?ope=html&type=register
で、まあ、前から気になっていたことを再想起したわけで。

理系の論文書いたことある人(あるいは文系の人でもある程度は)だと「TeX」「LaTeX」というツールにはお目にかかったと思います。まあ、知らない人もそういうものがあると是非覚えといてください。
この前会社でも、それが雑談の話題になりました。

今、Word やら PowerPoint やらの自由度が増えて、ものすごく凝ったデザインを可能にしたせいで、書類業務と言うのはスタイルの修正に膨大な時間を払うようになってしまっている。

それに対して、≪「内容」を「形式」から独立させる≫というのがTeXっぽい考え方だと、巷だとよく言われるわけです。HTMLってのは、正にその系統を引いているわけで、文章に意味情報 (例えば、太文字、イタリックを指定する) を入れて、相手のブラウザサイズに合わせて描画する。

ただそれは TeX の考え方ではなくて LaTeX の考え方なんですよね。指摘されるまで私もすっかり見落としてました。Knuth センセイが TeX を作った動機ってのは、むしろ徹底的にコンピュータの印刷をコントロールすることであって、だからこそ偏執狂的なほどに細かいパラメータが用意されている。それを平均的なパッケージ化することで、「思考から表現形式を外す」ってのが LaTeX だった。

それは「投稿論文の形式を≪標準≫に揃える」という編集側の思惑も入っているのですが、多分、その思想の根っこはそれよりも深い。

*

≪「形式」と「内容」は、分離可能である≫
これが「活字印刷文化」の根本にある「版屋さんと作家の分離」というコンセプトな訳で。
・音で語っていたコミュニケーション
・文字で語るコミュニケーション
・活字で語るコミュニケーション
ブロードキャスト性が上がるにつれて、どんどん分離が進んできたわけです。逆に言えば、この分離が進んだためにブロードキャストが容易になった。
そういう意味では「段落文体」というのは、「オーソドックスな印刷文化に属するテキスト」というジャンルに忠実な文化なのだと思います。

それはある意味、きわめて西洋的な文化。
《「構造、関係性に対する分析」を「個別のインスタンス」から徹底的に切り離して考える》という「抽象思考」が異様に発展したことこそが西洋文化の特異性であって、おそらくは西洋文化の限界であった点でもある。

個々の表現形式から、思考が独立できれば、余計な部分に力をそがれることなくまっしぐらに思考だけを追いかけることができる。これは以前私が「バカ戦略」「無知戦略」と呼んだものと本質的に同一のものなんでしょう。※1

日本や中国において、文章が「書道」という「個別のインスタンス」と密接にリンクしていたことと比較してみれば、この点はものすごく明白なんじゃないか、と私などは思ってしまう。

ただ、「科学的な文化」 の発展のためには、ある程度こういう割り切りは必要不可欠になる。個別よりも一般。特異よりも標準。それに合わせる事によって、社会の生産性は一気に向上するのはご覧の通り。

*

で、文書表現というジャンルにおいて、それに対してのアンチテーゼが、コンピュータの発達と共に一斉に上がってきた。おそらくワープロ文化とゲーム文化あたりから。

ワープロ文化は、DTPという形で、作家によるフォーマットの制御を可能にした。
京極夏彦センセイなんて、新書から文庫になると段落位置を変えたりするらしい。徹底的なレイアウトデザインのコントロールにかける情熱は、ご自身がデザイナーだったと言うところから来るのだろうが。

ゲーム文化はさらに突っ込んで「ビジュアルノベル」って奴を始めてしまった。絵と音が追加される究極の「非段落文体」。これは、映画の簡易版であるよりは、小説の拡張版という方が正しい。なぜならば、そこには「語り部」という主観が常に一人称で存在するから。※2
もっと言えば「ヴァーチャルな講談」

このまえ、友人と掲示板で《話した》ときに、そういう講談性が最近のテキスト文化の変動のキーワードと思えるんじゃないだろうかという話になりました。

その友人WKBさんが指摘したのが、講談というのが「場の共有」であるという点。一回性のものであって、きわめて主観的な体験の交換であると言うこと。

なるほど、と。
「主観的であること」への欲望と言うのは、「抽象的であること」へのアンチテーゼであったり反抗だったりするのだろう。それはまた、現在の「アンチ自虐史観」と呼ばれる運動なんかともリンクしたりするのかもしれない。
標準形式を捨てて「自分達だけの形式」を作り出そうと言う、標準言語からのドロップアウトは、女子高生のメールやら口語やらにも現れているわけですが、そいつも同じラインに乗るのかもしれない。

それが
「これからのビジネスは、個別カスタマイズさ」
とか飄々とのたまったりする意見の社会的な下地を作っているのだろう・・・。

そこまで考えると、ループが微妙に矛盾で閉じる。

西洋的な考え方では
「カスタマイズしても変わらない部分」を「本質」と呼ぶ。
「カスタマイズできる部分」を「形式」と呼ぶ。

「本質の不在」 と 「カスタマイズされる形式部分こそが実在」 という話になると、東センセイのいう「動物的ポストモダン」云々の考え方の枠組みに入るのだろう。

しかし、あれ、まてよ。とも素直に感じてしまうわけで。
「講談」も「カスタマイズ」も、そのこころは、「一回性」を《演出》することだったわけですが。
それがビジネスになるってのは、それが《演出》でしかなくて量産可能ってことを、あんまりにも明らかにしてしまうんじゃないでしょうか。

しかしその一回性は、話題の共通点を持たなければコミュニケーションとして存在できず、結果としてはそのローカルな空間のメッセージを模倣するだけにとどまってしまう。・・・じゃあそれは、「普遍性の放棄」ではあっても、「個別独自性の獲得」ではないわけで。

いうなれば「個別」ではなくて「ローカルグループの独自性」。グループが小さければ小さいほど、その枠引きこそが、一回性の《幻想》を生む。そこでマシンガンのように繰り出される《一回性祭り》の嵐。 
まあ、それは所詮、幻想でしかないのかもしれないが、仕方ない。人間と言うのはそういうものだ。
でも、「一回性の幻想を計画的に再生産できる賢い社会」って、何様?

・・・そしてまあ、矛盾と言うのは:
《一回性》と《一回性の幻想》は互いに相容れないかもしれないということだ。
他人のメッセージの形式を自由に操作できる「便利さ」は、「場としての講談性」を疎外しているのかもしれない。つまり、カスタマイズの可能性は、一回性を削ぐのかもしれない。
スターウォーズをiPod nanoで見ることは便利だが、ルーカスの意図とは異なるかもしれない。
電車男のスレッドをリアルタイムで見た人間と、まとめスレッドで見た人間と、本になっているのを見た人間と、映画やドラマやマンガで見た人間は、互いにものすごい勢いで異なっているかもしれない。

*

まあ、そんなことを考えつつ、CSSのfontの指定を14ptからmediumにしてみる。
これだけウダウダと考えて、やってることはこれだけかよ!

カスタマイズ万歳。

*










※1 論理思考の重視と、インスタンスの軽視は、ひょっとしたら同じ減少の裏表かもしれません。私が人の名前を覚えることができないのは、あるいは?


※2 日本人の書いたホラーが欧米のものより怖いのは、そういう 「主観の存在」 という講談の効果があるからかもしれませんね。

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