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生産と消費のすれちがい

昨年末に書いた「モノ作りはシグルイなり」に、ご意見頂きました。

「高度成長期的な日本=閉鎖的工場」という単純図式が、今後の日本としても本当に取るべき方針なのかという点について、お二人とも疑問を呈されているというのが、最も主要なポイントだと思います。(間違っていたらすみません)
 
実は、私もこの点についてはあまり楽観視はしていません。いつまでも「世界の工場」なんて言ってられるような甘いもんじゃないだろうと。(「モノ作り」が多国間の経済的な側面からどの程度の効果と限界を持つかについての私の意見は、後述したいと思います)
 
その前に、まずは「日本 v.s. 外国」という外政面ではなくて、
国民が生産に携わることの内政的な効果について、私の意見をちょっと書かせていただきたいと思います。
 
実は私は、それこそが生産行為の本質ではないかと思っているので。

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私自身、前回の書き方が
モノ作り側にちょっとふれ過ぎていて、一面的な表現であった気はします。
ただ、常日頃 「職人的技能」 に対して比重を大きくして語っているのは、
職人的技能の育成には
  ・国家と呼ばれるグループ内部の生産力・豊かさ維持
     ⇔「外国」と呼ばれる別グループとの均衡維持
という「外政面」でのメリットと共に、
  ・他者との間で発生する過剰なストレスの制御
     ⇔「個人」としての自信・余裕の育成
という「内政面」の効果があることを、私がかなり期待しているためです。
*

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以下はわたし自身の考え方で、賛否あると思うのです。都度、ご指摘ください。
「生産」
「消費」
という二つの概念は、単純な裏表ではなく、それぞれ独立した価値観を持った体系です。
これらが幸せな結婚関係にあるというのは、アダムスミスさんの夢の中だけです。
すくなくとも、
・生産ユニットであることに幸福を覚える、
・消費ユニットであることに幸福を憶える、
という二つの幸福感のバランスは、それぞれ個々の人間で大きく異なっています。
私の場合には、どちらかというと生産幸福のバランスが高い。
これはおそらく、生まれ持った体質よりは、その人の育った環境に大きく依存するのでしょうが。
「生産行為の崇拝」というのは、資本主義が発達した前半のあたりで
爆発的に成長した考え方・価値観です。マクス・ウェーバー先生あたりから
そんなことが指摘されています。
いわゆる共産主義(過去の遺物!)というのも、結局この生産の
価値観に乗っかっていると言う意味では資本主義とご同様です。
要するに 
    「自らを鍛える喜び」 や
     「生み出す喜び」 や
    「生産ユニットとして評価され・必要とされる喜び」
「消費の価値」というものがクローズアップされるのは、文化が爛熟期に
入ってきたときによく起こる現象です。
現代的な資本主義は、主にこっちによって駆動しています。
顧客ニーズの掘り起こし、ブランド主義、消費による生活スタイルの構築
などの現象は、だいたいこっちに分類されます。
この辺はボードリヤール先生などがよく指摘するところです。
あと、オタキング先生も、生産型のオタクに対して、消費型のオタクの優位を
語る人なので、面白く参考になると思います。
要するに
    「皆と一緒にいる喜び」 や
    「他人に評価されるオシャレな自分を作り出す喜び」
    「違いのわかる人間であるという高度コミュニケーションの喜び」
(なお、人によっては、上のような違いを「男性的」「女性的」とラベリングしたりもします。単純に性差に還元してしまうのは安易だし危険だと思いますが、統計的にそういう傾向は有るかもしれない。それは生まれつきの性差というより、育てられた文化環境の差による起因率が大きいと思いますが。)
こう分類してみればお分かりでしょうが、
「職人的価値観」「商人的価値観」というのは、
それぞれ、属する世界、それ自体が異なっている面があるわけです。
職人価値観は、生産の世界の住人の価値観であって、
商人価値観は、消費の世界の住人の価値観です。
「生産行為の崇拝」というのは、ある意味ヨーロッパでは100年前に流行のピークが終わっててしまったジャンルであり、アメリカでも第二次世界大戦前後 (おそらくフォードシステムの確立あたり) で、流行のピークが終わってしまった感があります。
近代という流行に遅れてきた日本では、第二次大戦以降も30年ほどこの価値観が主流で、それがゆえに、もっとも最近まで無茶な生産行動も可能だったのだろう、と私は思っています。
*

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「消費の価値観」というのは、消費によって、≪自分と他人との距離をコントロールする≫ことに重点があります。例えば、
・他人と一緒の趣味 (群れに近寄る 同化)、
・他人と異なった消費 (群れの一歩先を行く 差異)
という感じで、入ってくる「他人の情報」との距離を一定に保つ。
「一歩先を行く」という言葉自体、群れの方向性を考えないと、そもそも「先」って概念が出てきませんしね。皆が自分の方に飛んでくることを確認し続けなければならない。
そのためのメッセージを送る言語として、消費活動がある。
この目的のためには、周囲の「情報」に対して敏感なレーダーを用意する必要があります。
この場合の周囲の情報というのは、
・身の回りの他人の行動もありますし、
・テレビで流される流行の情報、
・ネットでわかる周りの人の考え方
まあ、その他もろもろ。
レーダーを使いこなせる生き方とは即ち、「オシャレ」な生き方。
一方で、職人的価値観は、そういう高精度なレーダーを保持していません。
リースマンというセンセイの喩えを使えば、それは
「旧式のジャイロコンパス」。
自分の飛んできた方向に対して、まっすぐ飛んでいるか、否か。
ぶっちゃけ、それしかわからない。
だから、全員が同じ方向を目指して飛んでいるときにはスムースなのですが、
レーダーを使った群れが、右にいったり左に行ったり細かく振動すると
群れから離れたり、ぶつかりそうになったりします。
そういう意味では、「消費の価値観」のほうが、一個人として現代社会
に溶け込むためには遥かに順応性が高い。これがリースマン先生の結論です。
したがって、現代社会のほとんどの人が、こちらのオプションを重視して
選択しています。
ただ、このレーダー方式が極端に流行った場合にはいくつかの問題がある気がします。
1)群れ全体という観点で見た場合
ジャイロコンパスで独断的に飛んでいる人間が、群れの中にある程度の
パーセンテージで存在していないと、群れ全体が方向性を見失う。
また、細かい振動が発生して、航路が不安定になる。直進しにくい。
2)情報量が増加する一方の社会では、レーダーから入ってくる情報の
処理だけで制御がいっぱいいっぱいになってしまう。
ただでさえ向きを変えると浮力がなくなるというのに、自分の飛行姿勢を
制御するだけの余裕さえなくなってしまうと、墜落します。
一人が墜落すると、それをレーダーで捕らえているほかの飛行機は、
それに反応して・・・連鎖反応。
3)もともと「レーダー向き」「ジャイロコンパス向き」という
特性はそれぞれの人間に備わっています。
それにさからって、皆でレーダーというのは、効率が悪い。
ジャイロコンパス派はレーダーを見るのにストレスを感じるし、
レーダー派がジャイロコンパスを見ろといわれてもストレスになる。
成果としても、ジャイロコンパス向きの人が、性能の悪いレーダーだけ
必死に見ていても、あまりろくな結果になりません。逆もまた然り。
特に2は、情報化社会において、ものすごく本質的な問題になりかねません。
とくに、「ネットワーク社会」「ユビキタス社会」というのは
各員のレーダーを無線LANでつないで情報共有しようという社会ですが、
ものすごく脳みそに計算負荷がかかります。
・受信だけで手一杯で、自分の姿勢制御方法する余裕が無い
・そもそも他人に指示してもらわないと、自分の姿勢制御ができない
という状態になりかねないわけです。
これは多分、「http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000278.html">キレる」という記事で描いた「人口の過密化」の状態よりも進んだ
「人情報の過密化」という状態と言って良いんではないか。
そう思っているわけです。
(余談:そういう意味で、私は小泉首相自身は結構評価しているのですが
 小泉が政権を握ったあとに唐突に尻尾を振り出したフォロワーが、想像以上
 あまりに多かったという事実については結構危惧しています。)
*

----*
それゆえに、全員が 「最新レーダー」 を見ることが必須条件となる
「ネットワーク社会」「ユビキタス社会」に備えるためにも
最低限は 「旧式のジャイロコンパス」 を見るクセも、つけておいた方が
いい気がするのです。
それが、巷で言う 「身体性の回復」 というやつで。
自分の翼の浮力を維持するための生活の知恵です。
即ち、
スポーツの部活動でも、お絵かきでも、まあ、何でも良いんですが、
どんな小さいことでも 「自分の領域」 を長期的に保持することで
そのなかで「飛び方」のコツを覚える。
そうするとレーダーを見続けなくても(少なくとも短期間なら)一人で飛ぶことができるようになる。
それが、日本のお家芸の「○○道」という考え方。
何事も一つを突き詰めれば、生き方が決まる、という宗教観みたいなやつ。
・・・もっとも、近年では
「今後は、管制官が賢くなるからジャイロコンパスなんか無くっても
 一人一人の人生をサポートする情報が無線で送られてきます。
 それだけ聞いていれば大丈夫。だから、ちゃんと料金を払って」
というメッセージは、よく聞こえてきます。
IT文化とか、保険とか、セキュリティとか、いろんなとこから。
 (お稽古事も、通信教育キット。お絵かきもアニメーション学院?)
そういう外部サポートを信じて飛んでいた方が不安が無くて良いかもしれません。
それなら落ちても 「自分の責任じゃない」 と言えるし。
(・・・でも、それを築いているはずの「IT研究」「情報研究」の
 中にいるはずの私は少なくとも「へー?」とか半笑い浮かべて
 その手のメッセージを聞いているぞ、ということは、
 言っておかないとフェアじゃない気がする。)
閑話休題。
*

----*
さて、以上のようなスタンスのうえで、「国の行方」という大きなものにもどって見ます。
胡麻油さんの
「日本の生産指向的なモノ作り文化は、極端な閉鎖性を仮定していたから
 初めてできたのではないか(その仮定が正しくなかったにせよ!)」
というご指摘は、もっともだと思います。
特に、
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