異邦人たち12月分
前回の公開からはや4ヶ月。
異邦人たち35話がようやく出ました。
コミホリにて公開中です。
つうか、このBlogも4ヶ月ぶりに書いています。
どういうことでしょう。
どういうことでしょう。
木曜の深夜に最終版を脱稿して、息も絶え絶え。
終了後にお仕事。今晩も月曜デモに向けて開発中。
どういうことでしょう。
いやあ、HunterXHunterって掲載速度早いですよね。
一年に1冊くらいでるんですもの。
*
閑話休題。
異邦人たち、ようやく片を付ける雰囲気になってきました。
いや、私の中の話自体はまだまだ沢山あるのですが、
とりあえず第五部の話だけは、自分の外に出してしまおうと思うのです。
思えば、この第五部のエンドを考えついたのが20世紀の終わりごろ。
そこから、構想3年、製作10年ですよ。
なんか、おかしくないすか?
普通「構想」と「製作」の所要時間が逆ですよ?
この話、学生時代のあのとき、「夏休み中にここまで書けたら良いな」と思っていたところですよ。
100ページくらいで終わらせる気だったですよ。
いま何歳ですか,俺。
今何ページ目ですか、これ。
*
息も絶え絶えで、描く時間が無くて、無理矢理ひねり出して、それでも足りない。
もともと「アマチュアが長編マンガを書けるか?」という実験だった訳ですが。
実験にえらく時間がかかったものだ。
不可能ではない。が、あまりオススメできない。
でもまあ。
幸福なことであります。
まがりなりにも、あの日見たストーリを吐き出せたのだから。
春頃までもう少しだけ書いて、そこで一旦一段落、ということになりそうです。
何ヶ月も、何年も待たせてきた皆様。伏してお詫び申し上げるとともに、もう少しだけおつきあいいただけたら、三等兵の幸い、これに及ぶことありません。
異邦人8月分脱稿
8/3(金)から、例のとおりコミホリにて公開予定です。
最近、手数足りなくて絵の作りこみ甘いかもしれないけど、ご勘弁。
*
で、脱稿して一息ついた。
脱稿だよ。脱肛じゃないよ。
相変わらずのことですが、原稿出す前は、
「原稿終わって無いのにブログ書くのも、なんか申し訳ないしなあ・・・」
と思って文章が書けずにいた。
原稿終わってみると、気合が抜けたのか、文章が書けない。
書けないんじゃねえか、単に。
一月以上書いて無いですよブログ。
まあ、たいへん。
*
いやね、奥さま。
なんか、時間を有効に使おうと思いまして、ネタ帳ノートを付けじめたんざますのよ。
ヲタキングの「ノート術話」に触発されましてね。
ブログを再開して書く気満々で。
そりゃあもう書く気満々で。
そしたら、ネタ帳のページだけ増えていって、ブログ全然書かないでやんの。
いやーもう。
あのほら、なんてえかな。時間だよね。人間の人生に必要なのは。
あとほら、なんてえかな。やる気だよね。人間の人生に必要なのは。
だってさ、最近どっちも足りないんだもの。
さっぱりだぜ。
まあ、今日は準備運動として、週末に何か書くのかなあ。
やっぱ、そうこういいながら書かないのかなあ。
*
なんか、書かなきゃいけない気はするんですよ。
世界が、色々と、週末っぽい雰囲気のイベントをバカスカ出している。
地震とか経済破綻とかなんとかそんなやつ。
これ大丈夫か?と。クライマックスか?と。シリーズ打ち切りか?と。
でも、そんな中でですね。
何かを書くべきかと考えると、何を書くべきかよくわからない。
考えたことは多いけど、他人に伝わりそうなことは少ない。
結局、人生ってそういうものなんだろうなあ。
語らなければ伝わらない。でも語るのには時間とやる気がかかる。
「伝わらない言葉」を紡ぐのに、どのくらいコストをかけるか。
まあ、こんな逡巡している暇があったら、なんか生産的なネタでも書いたほうがよさそうな気がしつつ、書く事が思いつかないまま、そうして今日も夜が更けるのであります。
*
こういうつまらない話を書くと、読者が逃げるから、面白い話しか書くな!
ってよく言われるんですけどねえ。
なんか、だんだん、すべらない話を期待される新人芸人みたいな気分になってきて、その呪縛に自縛して自爆。もう、とりあえず、なんかしゃべろうと。とにかくキーボード叩いてみようと。
なんつうかほら。コツコツとしか生きられないでしょ。
そういうもんだよ、うん。
多分そういうもんだよ、うん。
そうして今日も夜が更けるのであります。
めだかを巡るエトセトラ
「くだらないこと」は大事だ。ヒジョウに大事だ。すべての創造性は「くだらない寄り道」から始まる。
というわけで、ジャンプの「めだかボックス」について書いてみる。
というのも、前々から西尾維新について書こうと思っていたのだ。
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めだかボックスは、ラノベの帝王西尾維新が維新ワールドの間口を広げるための施策だ。
また一方、ジャンプは西尾氏が崇拝する荒木ワールドの母体である。
つまり初心者用の導入編である一方で、最終形態。量産型ゲルググの用なものだ。
というわけで、西尾論を語ろうと思っている以上は、個々から始めなければなるまい。
なお、最近はアニメになっているらしいが、残念ながら見れていないのですまん。
回文とめだか
さて本題。
なぜ、あのマンガのタイトルは「めだか」なのだろうか?
前から有りそうだと思っている仮説:
MEDACAはACADEMYの逆読みなんじゃないか。
西尾維新は、よく逆読み回文をする。そもそもNISIOISINというペンネームもアルファベットにしたら回文になるという理由で作られたらしい。
ACADEMY.MEDACA なら回文になる。
つまり、あれは「めだかの学校」だ。
めだかの学校は 川のなか
そっとのぞいて みてごらん
そっとのぞいて みてごらん
みんなで おゆうぎ しているよ
めだかの学校の めだかたち
だれが生徒か 先生か
だれが生徒か 先生か
みんなで げんきに あそんでる
めだかの学校は うれしそう
水にながれて つーいつい
水にながれて つーいつい
みんなが そろって つーいつい
めだかは「水槽学園」から「箱庭学園」に移され、「フラスコ計画」の中で培養されようとしている。
西尾維新の主要テーマは天才論。だが、曽田正人のように「野生の天才」の話を書く訳ではない。
実験室の籠の檻の中にいる「観察される実験体」「消費される天才」というテーマを描くことが多い。
どんなに天才たちが大げさな闘争をしても、所詮は「みんなでおゆうぎ」している「めだかの学校」でしかない。それが西尾維新の視点「メタレベルから見た少年ジャンプ」なのだろう
アンサイクロペディア版・めだかの学校
ちなみに、現在Googleで「めだかの学校」を引くと、こんなものがでてくる。
アンサイクロペディア:めだかの学校
めだかの学校(-がっこう)とは、イギリスのイングランド地方の詩である“A Tiddlers School ”を茶木滋(ちゃきしげる)が「めだかの詩」だと勘違いして和訳してしまい、中田喜直が曲をつけた日本の童謡である。1951年3月、NHKのラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で発表された。
原詩の作者は「キーツの晩年の作品」という説や「ノヴァーリスがイングランド旅行中に英語の勉強として書いた」など諸説あるが、未だに「詠み人知らず」ということになっている。
A Tiddlers School
A tiddlers school is in the river.
Look it gently not to make them scared.
See how they're playing all together.
A tiddlers school has lots of members.
Which is which, pupils and teachers.
See their play is filled with vigor.
A tiddlers school is in the pleasure.
They are swimming in the flowing waters.
All are drifting without any pressures.
おお、すげえ。もっともらしい。
が、これはアンサイクロペディアの記事。ということは言うまでもなくジョークサイトだ。
正直言うと僕も一瞬信じかけた。
A Tiddlers School で引いてみると、多くの人が盛大に引っかかって本気で信じているようだ。
しかし、英語で引いてみても、このサイトしか出てこないので、まあ、明らかに創作だ。
しらべてみると、ギャグの品質議論をまじめにしている。
トーク:めだかの学校
で、個人的には「めだかボックス」と、この法螺話の関係も気になっている。
西尾維新の「めだかボックス」のタイトルは、ことによるとこのジョークから取ったのかもと疑った。
だが、このサイトがアンサイクロペディアに載ったのは2009年の5〜6月のことらしい。
一方、めだかボックスのプロトタイプ読み切り版は2009年の10号。ということは2月ごろか。
そうしてみると、めだかボックスの方がネタとして先ということになる。
時期的に近いことを見ると、めだかボックスを見た後で作ったネタなのかもしれない。
まあ、推測の域を出ないんですがねえ。
始める前に終わる天才論
さて、枕話も終わり、西尾維新の「中二病的天才論」という本題に移ろうと思ったのだが・・・、
あれ?枕話が長過ぎた?
まあ次回にということで。
くだらない話を始める前に終わってしまった。
なんて、くだらないのだ
生産性が嫌いなブログ
なぜ最近の僕が文章を書けないかについて、20分ほどうだうだ考えて書いてみる。
*
まあ、もちろん時間がないというのが一番大きいんですが、どうも質的な問題もありそうだ。
目にするブログというのが、数年間でずいぶん様変わりしてしまった。
昔のブログというのは「ひねくれたことを言うオタクたち」がうだうだと長い文章を並べるところだった。
・・・と思う。
最近のブログ流行はどうも「役に立ちそうな内容を手短にまとめたメモ書き集」になってしまっているようだ。
Life Hackとか、仕事に役立つとか、料理に役立つとか、そんな情報をまとめているもの。一番典型的な奴は、薄めのビジネス本(新書)に書かれている目次内容を、さらに箇条書きにしたもの。
うん。そういうの、役に立つよね、と思う。
いや、役に立たないかもしれないけど、ついつい読みやすい。
僕もふらふらとネットサーフィンをすると、そういう類に引っかかりやすい。
ひょっとして役に立ったら、捨てておくのもったいないとおもってしまう。
別に、そんな文章を書かなきゃいけないと決まっている訳ではないのだけれど、どうもそういう文書が増えてきて、やりにくくなった気がする。
僕の考えと文章は、基本的に戯れ言。
何の役にも立たないし、目的も結論もない。
もともと、そういうものだった。
たまたま役に立つことがあるかもしれないけれど、それはたまたま。
そういうものだったのだ。
*
多分、科学というのも、もともとそう言うものだった。
役に立つために存在するのではなく、なんとなく気になることをウダウダという議論。
だからこそ、もともと「哲学」に分類されていたのだ。
湯川秀樹と梅棹忠夫の討論集の言葉を使うと
まあいうたら、学問は人類の勲章みたいなものですな。
ぶらさげてみても、いわゆる実用的な意味は何もあらへん。ただの飾りですわ。
勲章で栓抜き兼用の勲章なんかあらへん。これでビールの栓が抜けます、というような勲章は、あかんのです。
(「人間にとって科学とは何か」p.369)
*
しかし、いまでは科学という奴も、すっかり栓抜きになった。
嫌な言葉だが「生産性」という奴だ。
何かの役に立たなきゃいけない、という空気。研究でも、そういうのを問われる。結局何の役に立って、いくらになるのか。そんな作文がついていないと、レポートとして成立しない。
とはいえ、世の中の「生産性」というのは、大半は作文であって、本当に役に立つわけでもない。
先のまとまったメモ集などもそう。冷静に考えれば、どこかで使いそうだと期待して、Evernoteあたりにリンクをブックマークするものの、それきり忘れて永遠に使わない種類の情報だ。
ところが、本当には役に立たないことが分かっていたとしても、無視しにくい。これが、ポイントだろう。
まわりが生産性生産性とお経を唱えている中では、せめて「役に立っている振りをしないと、話に乗れない気がしてしまう。そこで、どんな人も「私はこんなに役に立っている」のような蛇足作文を継ぎ足すことが要求されるようになる。その蛇足作文をまとめて引用し、リンクが張られた作文を書く人が現れて人気を博す。
*
そうすると、しだいに作文のための作文が生まれる。
この結果生まれるのが「官僚主義」というシステムだ。残念なことだが、「現代的なビジネス」の8割くらいは、この官僚作文の周りをうろうろとして、引用作文とパワーポイントを作り続ける作業だろう。
だから、研究者に「お金になりそうな作文」をかかせると、ひどいことになる。
計算機屋の用語で言うならば、ポインター変数だけが山のように増え、インスタンスがない、という奴になりやすい。バズワードを追いかけていくと、実体までたどり着けずにうろうろ回ることになる。
まあ、なんのバズワードがどうとか、そういう野暮なことは言いませんよ。自分の首が絞まるし。
*
ええと、何の話だっけ?
まあ、要するにあれか。
「役に立つ思索」が嫌いなのに、役に立つフリをさせられているせいで、なんだか頭が鈍ってきた、と。
まあ、そんなところなのかなあ。
今回、一つ学んだ。
不平不満を並べると、文章は早く進むようだ。まとまりも生産性も無いけどな。 orz
ADHD闘病記
♪ウ○トラの父がいる、ウ○トラの母がいる
僕は、自分よりそそっかしい人間に会ったことがない。
まあ確かに、世の中にはそそっかしい人間はいっぱいいるし、目を見張るような失敗を目の当たりにすることもある。PCを置き忘れて会社の事故になりかけるとか、車の運転を誤って人を轢きかけるとか、僕の周りのいろいろな人が、個性的で強烈な失敗をしている。
だが、「こいつは俺よりもそそっかしい!」と確信させるような強者は、ほとんど居ない。
あえて僕のライバルを捜すとすれば、僕の家族だけだろう。
たとえば、僕の父。駐車場の両側に黒光りする大型ベンツとトヨタの軽自動車があったとする。その状態でベンツの方に自分の安物車を擦りつけるという恐れ知らずの実力は、なかなかあなどれない。さまざまなアクシデントの末、マンションの駐車場をたらい回しにされるというのは、相当なものだ。
だが、そんな僕の父も、僕の母に比べると安心で安定した人間に見えてくる。1ダースのガラスのグラスを購入しても、2ヶ月後には半分くらいになっている。その高度なレベルで安定したそそっかしさには定評がある。
♪そしてタ○ウがここにいる
僕は、そんな両親から生まれたいわばサラブレッドであるといえる。両親のそそっかしさを受け継いで、それを高度に昇華している。
自慢ではないが、私のそそっかしさは自他ともに認める実力であり、親しい友人を震撼させ、長年の上司を怯えさせている。まだ公式戦には出たことがないが、世界レベルで戦える超高校級の逸材であることは間違いない。
たとえば子供の頃、食事の最中に、目を離した隙にお茶碗に入ったご飯をなくしたことがある。友人に話したところ、目を見張って「意味が分からない」とつぶやいていた。もはやマジックの領域と言えよう。
たとえば大人になってからも、海外の空港で飛行機の乗り換え時に、何気なくパスポートをポケットから落として30メートル歩いて不意に気がつくという、高度なレベルの技を惜しげもなく披露している。
いまでは妻が、僕が日々繰り出すさまざまな消失トリックを目の当たりにしている。
タネも仕掛けもなく、目を離した一瞬で物体を消すマジックの美技に、疲れたような悲鳴を上げることもしばしばである。
♪なにかが地球におきるとき
さて、このような消失トリックの天才スターが、凡庸な世の中を生きていこうとすると、なかなか厳しいものがある。
歳とともに、仕事や、管理する情報が増えてしまい、各地への移動が多くなってきた。こうなると、僕の物体消滅能力の持つ潜在的な効果が発揮され、その惨禍は凄まじいものになっていく。
この自分のありあまる才能に疲れ果てた挙げ句、ここ数年、スランプに陥っていた。
対策として備忘録の手帳やノートを作っても3日で消滅してしまうのだ。
なんかもう、おれダメや、社会人として生きてられん、とかの呪文を呟いてゾンビのようになっていたこともある。
なんか、一時期のあいだ打ちのめされて以降、言葉が思い出せずに話に詰まることが多くなってしまった。歳の効果か、あるいは気落ちした反動か。
♪タ○ウが戦う
しかしまあ、おはずかしながら伴侶を手に入れ。
社会人博士の修行シーズンも終わり。
これからの人生を「社会人」として堅実に生きていく方法を、まじめに考えなければならない。
3月頃からノートを買い込んで、ADHD闘病記というのをつけ始めた。
僕としては驚くべきことだが、3ヶ月の間ノートをなくすこともなく、ちまちまと運命への戦いを続けている。
これはまあ、嫁に感謝すべきところだろう。
4月頃から、長らく止まっていた異邦人たちも、久々に続きを書いた。
ブランクが開いたら、自分のイメージを巧く書けなくなっているのにはびっくりしたが。
5月のGW後半には、仕事も何も考えない休みを取ったりした。
そんなこんなで、ぼちぼち頭の回転も回復を見せはじめている、と言った状態。
やっぱり僕みたいな人間に取っては、無理せず休むのは大事だなあ。
まあ、そんなこんな。
Web社会への復帰リハビリも、ぼちぼち始めるのかなあ。
これまでの人生で、自分の病状をネタとして書くという行為が、大事な治療の儀式であったりした。
無理しない範囲で、少しずつ、回るようにしないとなあ。